1980年代、東京・原宿の代々木公園横の歩行者天国でディスコサウンドにあわせて「ステップダンス」を踊っていた若者たち=竹の子族の末裔がいるという。
いったいどんな若者なんだ? なぜ、平成の世に竹の子族?
いろいろな疑問を抱えたまま、取材活動は始まったのだった……。
SPBSのホームタウン「渋谷」の今をきりとる「SPBSノンフィクション」第1弾をお届けします。
文・写真=神田桂一
80年代の若者文化の代表格=竹の子族
去年の夏、こんな噂を聞いた。
「原宿で極彩色の格好をした変な集団が変な踊りをしながら歩いているんだって」
そのとき、僕は、かつて竹下通りにあり、今は裏原に店舗を移したバーバーエイトの主人(タケノコ族のリーゼントを発明したそうだ)を取材したところだった。原宿のストリートカルチャーのことを調べていたこともあって、その噂にすぐ食いついた。
ほどなくして、僕は原宿に、この得体の知れない集団を探しに取材に出た。大阪という地方都市出身の僕にとって、原宿とは、特別な意味をもつ言葉だった。それは、決して誇張ではなく、とても甘美で、華やかな響きを讃えていた。僕にとっての、東京という都市の象徴といってもいいかもしれない。芸能人がたくさんいて、おしゃれな人たちが闊歩している。勇気を出して、ドキドキしながら行く、でも近づき難い、そんな街。
代々木公園方面を望む現在の原宿。
かつてこの道路を、奇抜なファッションをした若者が埋め尽くしていた。
竹下通りから、代々木公園のほうにまで足を伸ばすが、それらしき集団を目にすることはできなかった。聞き込みもしてみたが、収穫はなし。一旦撤収することにした。
どうしよう、と考えて、僕は妙案を思いついた。僕が今持っている情報は、「原宿で極彩色の格好をした変な集団が変な踊りをしながら歩いているんだって」この一行だけである。しかし、この一行から浮かんでくるイメージは、竹の子族以外にない。ただ、竹の子族は闊歩したりしない。バーバーエイトの主人から聞いたのだが、今でも竹の子族は少数ながらいて、ホコ天(歩行者天国)亡き後も代々木公園などで踊っているという。彼らなら、何かしらヒントを持っているのではないか。僕は彼らに会いに行くことにした。
そして再び原宿。僕は早速代々木公園のほうに向かう。
昔、その一帯には歩行者天国というものがあった。原宿では1977年に代々木公園の交番から、青山通りまでの一帯がその区域として指定され、90年代に廃止されるまで、さまざまな若者文化の発信源となった。その一番の代表格が、竹の子族だった。
竹の子族がいた時代、日本はまだ、大らかだった
ここで時計の針を少し戻してみる。
1980年。世界第2位の経済大国とはいうけれど(現在は世界第3位)、日本はどこか未熟で、軽薄で、ゆるい。松田聖子がレコードデビューし、ツービートが「赤信号、みんなで渡ればこわくない」という標語のパロディでお笑い界に新風を吹き込む、アイドルブームも漫才ブームも夜明け前の、バブルもまだ見えるか見えないかという時代。
80年代、若者文化の象徴として君臨した竹の子族。
どこからともなく集い、奇抜な衣装でパフォーマンスを繰り広げた
(c)共同通信社/アマナイメージズ
原宿、代々木公園横路上のホコ天(歩行者天国)では、竹の子族と呼ばれる、派手な衣装に身をつつみ、バッドなリーゼントでキメた若者が、ディスコサウンドに合わせて踊っている。ときは竹の子族の最盛期。50グループ、2,000人以上が路上に集まっている。見物客も相当いる。参加している若者は主に中・高校生。彼らにとって、このホコ天は青春そのものだ。竹の子族という名前の由来は諸説あるが、78年に原宿にできた「ブティック竹の子」からとられているという説が濃厚だ。ブティック竹の子では、最盛期に、年間10万着が売れたという。誰もがここで奇抜な衣装を買って、意気込んでホコ天に向かったのだ。国民的ブームが成り立ち、消費の速度も遅く、メインとサブがまだ明確にあった、日本という国の青春時代──。
代々木公園に着いた。すると、竹の子族らしき人たちがいた! 早速近づいて話を聞いてみると、知っていた!
「ああ、あそこで練習しているよ」
指差す方向を向くと、いた! 確かに竹の子族よりも変な格好だ。名前はケケノコ族というらしい。竹の子族のオマージュで、竹の子族の人たちとも交流があるとのこと。早速、話を聞いた。
代々木公園でへんてこりんな踊りを練習する人が……
「きっかけはすごく些細なことというか、ひょんなことだったんです。たまたま原宿に遊びにいったときに、もうこの歳になると、竹下通りって普段通らないじゃないですか。だからたまには通ってみようと思って通ってみたんです。すると異彩を放つ店があって、中に入ったら、ユーロビートがガンガンに流れていて、マネキンも100体くらいあって、ちょっとこの店おかしいなって衝撃を受けたんです」
彼女の名前は、ひさつねあゆみさん。職業、アーティスト。個性的なアイドルを輩出していることで有名なミスiD2017年度のファイナリストで特別賞受賞者でもある。竹下通りにあるちょっとアタマがおかしい店は前出の「ブディック竹の子」。興味を持った彼女は、竹の子族について調べ始めることになる。
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「調べてみると、竹の子族に関する資料ってほとんどないことに気づくんです。ファッション史の本とかには一応言及されているんですが、あまり有用な文言とかもなくて。でも、『ブティック竹の子』が、竹の子族の歴史の大きなカギを握っているっていうことだけはわかったんで、会長がもし死んでいなかったら会いたいと思って、電話してアルバイトさせてくださいと言ってアルバイトに合格したんです」(ひさつねさん)
現代の竹の子族=ケケノコ族として活動する、ひさつねあゆみさん(左)。
どんなに離れていても識別できる派手な衣装だ!
そこでバイトをしながら竹の子族に関する勉強を重ねていくうちに、自分でも竹の子族のような、表現の場をつくりたいと思い、竹の子族へのオマージュとしてのパフォーマンスをK・エニシ・旭莉と始めた。名前はケケノコ族。
「原宿ファッションに身を包んだ人たちが集うホコ天みたいな空間をもう一度つくりたいと思ったんです。ストリートファッション誌『Zipper』(*1)もなくなったし、ここに行ったら面白いファッションをした人たちが集まってる、みたいな場所もないし、中学校時代、ホコ天で『FRUiTS』(*2)の人にスナップされるのに憧れていたんですけど、私が上京するころには、ホコ天自体がなくなっていて、でも、GAP前があったんです、私の時代は。今はそういうのもなくなって。それを復活させたいんです」
確かに僕が上京してきて初めて抱いた東京の印象は、警察が多い、だった。いつも誰かに監視されているような気がして嫌だったのを覚えている。東京のホコ天のような公共空間が徐々になくなっていったのも、それと無関係ではあるまい。好むと好まざるとに関わらず、社会が成熟していくと、窮屈になっていくものなのだろうか。竹の子族がいた時代は、まだ日本がおおらかな時代だったというべきなのだろうか。
乾坤一擲の「ケケノコ闊歩」
竹の子族に影響された独特の衣装とメイクが特長のケケノコ族。その主な活動は、代々木公園での定期的なダンスの練習と、“ケケノコ闊歩”だ。中でもケケノコ闊歩が特に好評だという。
「始めたのが去年の1月です。夏までは、代々木公園でシートを引いてその前でダンスの練習していたんですけど、そこに全然人が来なくて。いつも私ともう一人の友人だけで。どうしたらいいんだろうと思って、そこから竹下通りに行って踊りながら歩いて、存在を見せる、ケケノコ闊歩を思いついたんです。
そしたらダイレクトに反応があって、メンバーは増えないにしても、踊りながらついてくる人とかいて、若い子が集まり始めて、っていう感じです。今現在のメンバー数は、ケケノコネームっていうのがあって、ケケノコ族に入るとケケノコネームっていうのがもらえるんですけど、それは、7、80人ぐらいいます。来る人は平均で、15人ぐらいです」
ドリフターズの「髭ダンス」を彷彿とさせる「ケケノコ闊歩」。
原宿の名物になる日も近い?
大きなイベントはしないんですかという質問に、特にないと答え、これからも地道にやっていくと答えた彼女。最後に重要なキーワードを交えながら、このように話してくれた。
「人に見せるための洋服というよりも、踊るために着る洋服があって、それがあるから集まれるみたいな、それがすごい竹の子族には感じたんで、そういうお洒落の楽しみがあってもいいなと思ったし、それさえあれば、ほかのこと、その子が持っているパーソナルな、ネガティブなこともポジティブなこともそういうのも抜きにして集まれるような……リアルSNSみたいな! だから名前も付けているっていうのは、そういうところでもあって、踊れてこの格好してればもうケケノコだからあとは別に、先輩後輩なくても、凄い子でも 凄くない子でも、可愛くても可愛くなくても、それだけで交流できて、いっぱい集まれば面白い、そんな場所、コミュニティをつくりたいんです」
*1 『Zipper』……1993年創刊の女性ファッション誌。古着をミックスさせたコーディネートや、ボーイッシュな着こなしなど、奇抜で個性的なファッションを発信し、10歳代後半を中心に多くの若い女性に支持されてきた。2017年12月に休刊。
*2 『FRUiTS』……1996年創刊のストリートスナップ誌。ストリートで一大ムーブメントを巻き起こし、『FRUiTS』の“スナップ待ち”のために、若者が原宿に集まるほどだった。「オシャレな子が撮れなくなった」ことを理由に、2016年12月を持って月刊発行を休止している。
<著者プロフィール>
神田桂一(かんだ・けいいち)/ フリーライター・編集者
1978年大阪生まれ。関西学院大学法学部卒業。一般企業勤務から、週刊誌『FLASH』の記者に。その後、ドワンゴに移り、「ニコニコニュース」編集部に所属、編集記者を経てフリー。『POPEYE』『ケトル』『スペクテイター』などで執筆。初めての共著『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』が11万5,000部のベストセラーに。